長渕剛「乾杯」FNS歌謡祭バージョンのメッセージ 後編

FNS歌謡祭2016での長渕剛の「乾杯」の本当の意味を考える 後編

前回の長渕剛「乾杯」FNS歌謡祭バージョンのメッセージ 前編から少し時間が空きましたが、後編では「長渕剛の真剣なメッセージ」「批判や意見をするのは良いけれど」「訴えかけることがなければ」などを勝手に書いてゆきます。

あくまでも個人的な考えですので、アンチ長渕派の人たちと討論するつもりはありません。(誰もするつもりはないと思いますが)

また、誤解がないように書いておきますが、曲はすごく好きですが、わたしは長渕さん信者ではありません。

長渕剛の真剣なメッセージ

北の国から'89帰郷初期バージョン「乾杯」は『北の国から’89帰郷』の挿入曲として使われていますが『北の国から』の脚本家の倉本聰さん作のドラマ『もう呼ぶな、海! 』のなかで、出演していた岸谷五朗さんが「長渕剛はいい、いつも怒ってる」というセリフがあったのを思い出しました。

真剣に怒るのは非常にパワーが必要で、怒った後はすごく疲れます。

今回の『FNS歌謡祭2016』での魂の「乾杯」を聴いて思いましたが、以下の3フレーズが新しくなっていることからも、文化としてのポピュラーミュージックのことを考えて、プロ・アマ問わず若いミュージシャンや、これからの時代の表現者全員への真剣なメッセージではないかと思いました。

「涙の言葉で歌ってきた」
「振り返らずにそのまま生きてきた」
「信じた愛に背を向けるものか」

マスコミ、社会、現在の音楽シーンへ批判はあくまでも導線で、自らが批判を受けることは覚悟の上で、音楽という文化を継承する役目を背負ってくれたのではないかと思います。

本編の「乾杯」は聴いていてジーンと来ました。「歌ってきた」「生きてきた」は過去形です。

そして「信じた愛に背を向けるものか」から、多くの人間を引っ張り、時代を駆け抜けてきた長渕剛というアーティストが、最後の自分の大きな役割だと位置づけているような気も受け取ることもできます。

「歌の安売り=自分の安売り」です。「表現者としての道を選び、生きてゆくのであれば誇り高く生き、その役割を真剣にまっとうしろ」というのが今回の長渕さんが伝えたかったことではないでしょうか。

批判や意見をするのは良いけれど

今回、FNS歌謡祭2016 長渕剛「乾杯」関連の、いくつか記事を読みましたが、いろいろな考えがあるのは当然で、生きてきた環境の違いも理解できます。

それでも真剣にメッセージを伝えようとした人間に対して、批判や意見をするのは良いとしても、冷やかすというのはいかがなものかと思います。

まだ小学生の低学年ですが、わたしの子どもが、大人になり、もしそんな人間になってしまったら、わたしの育て方が間違っていたのだと責任を感じ、反省して死ぬまで自分を責め続けます。

訴えかけることがなければ

最後に第2夜のBOØWYメドレーが『FNS歌謡祭2016』でやっていたのですが、まだ音楽を始めたばかりの頃、わたしが敬愛するアーティストの一人である氷室京介さんが「訴えかけることがなければバンドなんてやっても意味がない」とインタビューで答えていた記事が脳裏に浮かびました。

大学時代は、すでに音楽制作の仕事をしていたので、バンドは高校生のとき以来やっていませんが、それでも曲を作るときに、今でも氷室さんのこの言葉はすごく大切にしています。

それにしても長渕剛さんの「乾杯」を聴いてイロイロなことを考えさせられました。また放送したTV局も評価できるのではないでしょうか。

音楽業界だけでなくTV業界の人でも「音楽という文化」がなくなってしまうと危機感を持っている人がいるのは当然です。

後、BOØWYメドレーはカラオケっぽくなってしまっていたので、ボーカリストを一人に固定したほうが良かった気がします。(山本さんがビックリの格好良いギター演奏でした。)

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