元女優さんと長渕さんとのトラブルは20年以上前の出来事で、すでに時効を迎えていますが、元女優さんが「長渕剛」と訴えられることも覚悟で完全に戦うつもりで実名を出してきましたので、それだけでは終わらない流れになっています。
長渕さん側が動いていないので、現状だと、どちらに肩入れするわけではありません。とは言っても、個人的に信者ではないもののミュージシャン・長渕剛に敬意を持っていたので非常にモヤモヤしています。
長渕さんは今でも信じている多くのファンやご自身の家族のために、中途半端な形ではなく、しっかりとケジメをつけなくてはイケナイ時期に来ていると感じます。
ネットのニュースのほうで大きく出ていたので、録画ですが『FNS歌謡祭2016』を視聴しましたが、ニュース記事で読んだ通りに長渕剛さんの「乾杯」が圧倒的に凄かったです。
FNS歌謡祭2016での長渕剛の「乾杯」の本当の意味を考える 01
さまざまなアーティストが出演するステージでの大トリというのは、そのステージの「まとめ」の役割があるのですが、まとめではなくて、すべて長渕さんが持っていったのではないかという気がします。
歌詞の字幕が、しっかりと出ていて、TV局も容認していることは明らかですので、その点は問題はまったくない気がします。
長渕剛はずっと本物のアーティスト
紅白でも伝説を作っていますが、これが長渕剛さんなんです。ファッションとして使われる言葉の「アーティスト」ではなく、今でも長渕さんは本物のシンガーソングライターであり、本物のアーティストです。
キャリアがない人が「こんな世の中はよ〜」と歌ってもガキ扱いで終わってしまいますので、ストレートなプロテスト・ソングは長渕さんクラスの大物がやって意味があり、はじめて影響を与えます。
長渕剛というアーティストは「自分の言いたいことだけを一方的に主張しているだけ」のように感じる人もいるかもしれませんが、自分の主張とリスナーとの距離感であったりコミュニケーションのバランスを非常に重視しているのが長渕さんです。
重視しているというより彼は圧倒的に天才ですので、その感覚が身についているという表現のほうが相応しいかもしれません。(本人は認めないかもしれませんが間違いなく天才です。)
それができないとファンだけでなく、周りのスタッフも離れてゆきますから、今でも第一線のアーティストでいられるわけがありません。
また「わがまま」「扱いにくい」「自分勝手」という言葉が長渕さんをよく思っていない人からは頻繁に使われますが、長渕さんは音楽に対してはもちろんですが、さまざまなことに本当に真剣です。
曲がったこと、筋を通さない人間、利用しようとする人間が大嫌いです。そして、優しくて暖かくて繊細です。こんな長渕さんだからこそ、多くの人が惹かれています。
音楽の持つ力
アイドルにも歴史や文化があるように、ボブ・デュランがノーベル文学賞を受賞して話題になりましたがロックやフォークの世界にも先人たちが築いてきた歴史や文化があります。
ロックやフォークは時に社会にある「無意味な常識、秩序、道徳」を、その力で壊してきましたが、最近は音楽が溢れすぎてしまったということもあるのですが、その力が弱まって消耗品みたいになってしまっています。
本来の音楽の持つ力がなくなっていると感じているのと同時に、このままでは「音楽という文化」がなくなってしまうという危機感を持っている人は長渕剛さんだけでなく音楽業界にもかなりいます。
実は生前の尾崎豊さんも「日本の音楽はある程度のところまで来るとラブソングっぽいものに妥協してしまう。このままでは音楽文化はなくなる」というようなことを言っています。
FNS歌謡祭2016での長渕剛の「乾杯」の本当の意味を考える 02
ここからは「長渕剛の真剣なメッセージ」「批判や意見をするのは良いけれど」「訴えかけることがなければ」などを勝手に書いてゆきます。
あくまでも個人的な考えですので、アンチ長渕派の人たちと討論するつもりはありません。(誰もするつもりはないと思いますが。)
また、誤解がないように書いておきますが、曲はすごく好きですが、わたしは長渕さん信者ではありません。
長渕剛の真剣なメッセージ
初期バージョン「乾杯」は『北の国から’89帰郷』の挿入曲として使われていますが『北の国から』の脚本家の倉本聰さん作のドラマ『もう呼ぶな、海! 』のなかで、出演していた岸谷五朗さんが「長渕剛はいい、いつも怒ってる」というセリフがあったのを思い出しました。
真剣に怒るのは非常にパワーが必要で、怒った後はすごく疲れます。
今回の『FNS歌謡祭2016』での魂の「乾杯」を聴いて思いましたが、以下の3フレーズが新しくなっていることからも、文化としてのポピュラーミュージックのことを考えて、プロ・アマ問わず若いミュージシャンや、これからの時代の表現者全員への真剣なメッセージではないかと思いました。
「涙の言葉で歌ってきた」
「振り返らずにそのまま生きてきた」
「信じた愛に背を向けるものか」
マスコミ、社会、現在の音楽シーンへ批判はあくまでも導線で、自らが批判を受けることは覚悟の上で、音楽という文化を継承する役目を背負ってくれたのではないかと思います。
本編の「乾杯」は聴いていてジーンと来ました。「歌ってきた」「生きてきた」は過去形です。
そして「信じた愛に背を向けるものか」から、多くの人間を引っ張り、時代を駆け抜けてきた長渕剛というアーティストが、最後の自分の大きな役割だと位置づけているような気も受け取ることもできます。
「歌の安売り=自分の安売り」です。「表現者としての道を選び、生きてゆくのであれば誇り高く生き、その役割を真剣にまっとうしろ」というのが今回の長渕さんが伝えたかったことではないでしょうか。
批判や意見をするのは良いけれど
今回、FNS歌謡祭2016 長渕剛「乾杯」関連の、いくつか記事を読みましたが、いろいろな考えがあるのは当然で、生きてきた環境の違いも理解できます。
それでも真剣にメッセージを伝えようとした人間に対して、批判や意見をするのは良いとしても、冷やかすというのはいかがなものかと思います。
まだ小学生の低学年ですが、わたしの子どもが、大人になり、もしそんな人間になってしまったら、わたしの育て方が間違っていたのだと責任を感じ、反省して死ぬまで自分を責め続けます。
訴えかけることがなければ
最後に第2夜のBOØWYメドレーが『FNS歌謡祭2016』でやっていたのですが、まだ音楽を始めたばかりの頃、わたしが敬愛するアーティストの一人である氷室京介さんが「訴えかけることがなければバンドなんてやっても意味がない」とインタビューで答えていた記事が脳裏に浮かびました。
大学時代は、すでに音楽制作の仕事をしていたので、バンドは高校生のとき以来やっていませんが、それでも曲を作るときに、今でも氷室さんのこの言葉はすごく大切にしています。
それにしても長渕剛さんの「乾杯」を聴いてイロイロなことを考えさせられました。また放送したTV局も評価できるのではないでしょうか。
音楽業界だけでなくTV業界の人でも「音楽という文化」がなくなってしまうと危機感を持っている人がいるのは当然です。
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